個人の勝手と失敗と懇願と愛想について

2015年3月17日

マインド 教育 日記

子供が成長して来たり、会社で役職がついたり、友達がパソコンを始めたいから教えてと言ってきたり、 近頃、人に教えることがやたらめったら多くなって、上手くいくことがあまり無いので、考えをメモって、おきます。

教えることと、育てることの違い

「教える」と「育てる」は根本的に違うようです。
勉強は、教える。 子供は、育てる。 会社の部下は、教育。 友達には、教える。
書いてみて、何となく分かってきました。 僕の中の順位づけで、子供が最上位にいたんですが、これを見ると、会社の部下が、教えて育てるという位置なんですね。 もちろん子供にも「教育」を行うが、育てる方が合っていると思う。 それにしても、どうりで、会社の部下が一番手間がかかるわけだ。

うまくいかない事

僕は人に教えるという事が、上手いと思ったことはないが、自分の教える事を覚えると、どんだけいい事があるかは、魅力的に説明できます。 おそらく、そういう話を聞いた人が、それを教えてくれと言われるパターンが多いのだが、 いざ、教え始めると、教わる側が、「大体分かった」という感じになります。 僕もそれ以上教えません。 全てを教えていないし、肝心な箇所にたどり着いていないのに、教わっている方は、分かっている気分になります。 なんででしょう? 学校で、先生の話を聞きながら、教科書を先読みして、分かった気になっているあの感覚なのだろうか? それとも、基礎だけ教わって、あとはネットで勉強するからという、遠回しの教育拒否なのだろうか? ここまでは、僕も、ある意味、本人も理解できて、やる気と成長の兆しが見えてきたので、いい感じなのだが・・・

問題はここからだった

教えた事を実践しようとすると、失敗するのだ。 じつは、失敗自体は、物事を教わる過程において、物凄く有意義な体験とされていて、物事を覚える最短の距離とも思えます。 だけど、失敗した後で、 「どうすればいいでしょうか?」 と聞きに来るところで、そもそもの失敗に僕も気がつきました。 「それを考えないと、成長できんやろ!」 心の中で、繰り返しそう叫ぶのですが、分かった気になっていた教わった人は、顔を真っ青にして、失敗した事を挽回しようとしています。 仕事であれば、時間が優先なので、サクッと手直しして終了ですが、本人は、折角の成長のチャンスを逃してしまいました。

愛想をつかす?

もちろん、本人の分かったという言葉を信じて、教育終了する事は無いのですが、 この本人の分かったという感覚が、その後の成長を止めてしまうという傾向が見られたので、ここらで教育方針を変えないといけないと感じました。 僕にとっての分かったポイントがそこだったんですね。

ポイント

教わることに対して、教育者は、教わる側が分かったかどうかではなくて、ちゃんと教えているかを確認すべきだと。 次からはもう少し、シナリオ立てて教えるようにしよう。

このブログを検索

ごあいさつ

このWebサイトは、独自思考で我が道を行くユゲタの少し尖った思考のTechブログです。 毎日興味がどんどん切り替わるので、テーマはマルチになっています。 もしかしたらアイデアに困っている人の助けになるかもしれません。